きょう6月13日の朝日の一面に、あの砂川判決で示された、いわゆる統治行為論の正統性に疑義を呈した裁判官のメモが見つかったというスクープ記事が掲載された。
砂川判決とは、1959年12月16日に下された最高裁の、「日米安保は憲法9条違反だ」と断じた伊達秋雄東京地裁裁判長の判決を差し戻した判決である。
その時、田中耕太郎最高裁長官が用いた法理論が、いわゆる統治行為論である。
その意味するところは、「極めて政治性の高い国家行為は、裁判所が是非を論じる対象にはならない」というものだ。
この田中耕太郎最高裁長官の統治行為論によって、最高裁判決は15人の裁判官の全会一致で伊達判決を差し戻し、その結果、東京地裁は伊達判決を否定する判決を下して砂川訴訟は終わった。
ところが、全会一致に至るまでの最高裁判官の議論の過程で、判決に携わった調査官が書いた、「(統治行為論が)果たして多数意見といえるか否か疑問である」とするメモが見つかったというのだ。
当時の最高裁判事のひとりの親族宅で、その判事の遺品の中から朝日新聞記者が見つけ出したというのだ。
これは物凄いスクープである。
そもそも田中耕太郎最高裁長官の「統治行為論」自体が正統性に疑義がある上に、全会一致の判決そのものの決定プロセスに正統性がなかったということだ。
統治行為論そのものに異を唱えている裁判官が多数存在したにも関わらず、最後は全員一致で差し戻し判決を支持する結果に終わっている。
その裏にどのような政治的圧力が働いたのだろうか。
もちろん田中耕太郎最高裁長官が、当時のマッカーサー駐日大使と密議を繰り返し、圧倒的多数で伊達判決を覆して見せると伝えていた事は、後日マッカーサー大使の公電などから判明しているが、またひとつ、正統性を疑う証拠がでてきたのだ。
いまでは、統治行為論などと言う言葉は聞かれなくなった。
しかし、裁判の実態は、どんどんとその考えを安易に使って裁判所は政治的判決を避ける事が当たり前になってしまった。
きょうの朝日の記事でも書いている。
10日に下された那覇地裁の臨時国会召集義務をめぐる訴訟でも、国側はこの考えを、有無を言わせずに政治判断を正当化する手段として使ったと。
野党は、この朝日のスクープ記事に注目し、いまこそ国会で「統治行為論」の正統性に疑義を呈すべきだ。
そしてすっかり崩壊してしまった司法の独立性を取り戻す制度的保証を政府に求めるべきだ。
さもなければポスト安倍の政治でも何も変わらなくなる。
日米安保体制は今後も末永きにわたって憲法の上に位置する事になる。
国家と国民の統合である象徴天皇の上に米国大統領が君臨する事になるのである。
それでいいのか、令和の日本は(了)
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