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コロナ危機でも叙勲を遅らせられなかった理由

 今年も叙勲の季節が来た。

 きょう4月29日の各紙が春の叙勲受章者の一覧表を掲載していた。

 それを見て感慨深く思った。

 ついにわが同期たちが叙勲を受けるようになったのかと。

 そこには何人かの私のかつての外務省同期生の名前がある。

 もちろん全員ではない。

 そして名前のある同期生の中にも歴然とした勲章の格差がある。

 今年名前がなかったからといって、終生もらえないわけではない。

 遅れて、より高い勲章をもらう場合もあるからだ。

 今年もらえなかっても、勲章に格差があっても、最後はほぼ全員がもらって帳尻が合うようになっている。

 その一方で、私のように絶対にもらえない者もいる。

 いわゆる政府に盾突いた「反逆者」、「国賊」たちである。

 もらえなかったから、悔しまぎれに書いているのではない。

 もらうつもりなら、はじめから政府にたてつくような意見など言わなかった。

 官僚時代に叙勲の選考に少しばかり携わり、叙勲制度に疑問を持っていたのだ。

 そしてこんな叙勲制度はなくしたほうがいいと思っていた。

 叙勲は人を不合理に格付けするものだからだ。

 もちろん叙勲される者たちのほとんどは叙勲に値する実績のある人たちだ。

 特に民間人はそうだ。

 しかし叙勲を決める者は時の権力者だ。

 そのリストは官僚がおぜん立てし、最後は時の権力者のさじ加減できまる。

 どうしても不公平がつきまとう。

 勲章がほしければ権力者に逆らえないのだ。

 いや、勲章欲しさに、何十年も前から権力に迎合することを決めている者がいるぐらいだ。

 しかも高位の勲章の中には、生涯年金を給付されるものがある。

 その原資は税金である。

 究極の国民間の差別だ。

 繰り返していう。

 叙勲制度は民主主義になじまない。

 だからと言って選ばれた人たちに叙勲を受けなというつもりはない。

 叙勲制度がある以上受けるべきだ。

 そして受ける人たちはみな叙勲に値する立派な実績をもった人たちだ。

 敬意を払い、そして祝福させていただきたい。

 しかし、その選考過程には不公正、不合理があるのだ。

 官僚や政治家など、いわゆる権力側に立つ者たちが優先的に、より高い勲章をもらっていることがその典型だ。

 叙勲制度そのものが、官と民を差別している。

 権力者による、権力者のための制度であるからだ。

 だからこそ叙勲制度は、どんなに不公正、不合理なものであってもなくならない。

 春の叙勲を受けたある作家が語っていたことが印象的だった。

 コロナ危機の時にもらっていいのかと当惑したがそれでも受賞できたことを素直に喜びたいと。

 この作家はまともな感覚の人だ。

 受賞に値する人だ。

 そしてまさしくコロナ危機でも叙勲はゆるぎない。
 
 遅らせることすらしない。

 天皇陛下による授与式すらコロナ危機で中止されるというのに、叙勲だけは予定通り行われるのだ。

 なぜなら、それを心待ちにしているものが叙勲を決める側にいるからだ。

 明日はどうなるかわからない。

 叙勲を受けずに死ねるか。

 そう思っている者たちが叙勲を決めているからだ。

 そして、そういう者たちは、叙勲のランクにこだわる。

 俺がこの勲章であいつがあの勲章とは、許せないと。

 俺の勲章があいつの勲章を抜いた、いろいろあったが最後は勝ったと。

 やはり、叙勲制度はないほうがいい。

 それでも決してなくならないだろう(了)

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