紆余曲折を経て、沖縄の県民投票が「三択」方式で実施される事になった。
この結果を歓迎する意見が見られる。
辺野古強硬派が歓迎するのはわかる。
なぜなら、それが辺野古強行派の、追い込まれた末に思いついた、戦略であるからだ。
しかし、辺野古反対派の中にも、これで「沖縄全県民が意思表示できることになった」と歓迎する向きがある。
これは大きな間違いだ。
いや、間違いでないかもしれない。
しかし、間違いでないとわかる時は、唯一、大多数の県民が明確に「反対」の意思表示をする時だ。
それは、あくまでも結果論だ。
そして、そうなる可能性は少ない。
「どちらでもない」という三択が追加されたことによって、迷っている沖縄県民の多くがそちらに流れる。
それが世論調査の常だ。
そして、「どちらでもない」を政府は「反対」ではない方にカウントする。
つまり、明確に「反対」だと表明した者だけが「反対」したことにされる。
これを要するに、「反対」が、「賛成」と「どちらでもない」を足したものを上回らなければ、つまり50%を超えなければ、県民の意思は「反対」とはみなされないのだ。
これはかなりハードルが高い。
しかもである。
過半数を超える程度の多数では、辺野古移設のような大きな決められない。
いや、決めてはいけない。
こういう議論が必ず出てくる。
そして、この意見は、かなり説得力がある。
たとえば米国の大統領選挙を見るがいい。
トランプ大統領が誕生して米国が分断されてしまった。
英国のEUからの離脱が国民投票によって決まり、いまでも対立が続いている。
民主主義の弊害さえ指摘されるようになった。
そう思っていたら、きょう1月27日の東京新聞の社説「週のはじめに考える」が、まったく同じことを書いた。
数日前の朝日の社説もトランプ叩きとして民主主義の限界を書いていた。
辺野古反対の朝日や東京さえもそう書いているのだ。
ましてや安倍政権や読売や産経は、2月24日の投票結果を見て、「反対」が単純過半数を少しぐらい超えたぐらいでは、辺野古阻止の民意が反映されたとは言えないと言い出すに決まっている。
それを防ぐには、過半数をはるかに超える大多数が「反対」投票しなければいけないのだ。
このハードルはもっと高い。
あの時、安倍政権のごり押しで、全県民の意思表示が出来なかった。
これは県民の投票機会を奪う暴挙だ。
安倍政権は民主主義の敵だ。
そう言って安倍政権を悪者にしたほうがよかったということになりかねない。
そうならない事を願うばかりである(了)
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