新党憲法9条

憲法9条それは希望

見事に奏功した安倍・田原合作の憲法9条改憲棚上げ戦略

 どうやら安倍・田原の憲法9条改憲棚上げ戦略は見事に成功したごとくだ。

 私がなぜ合作と書いたかと言えば、憲法9条改憲の棚上げは、あながち田原氏ひとりが一方的に提案したというものではなく、安倍首相もその気になって積極的に推し進めたと思うからだ。

 内閣改造ぐらいで支持率回復は無理だ。

 これは田原氏が安倍首相に政治決断を迫った時に伝えた言葉だといわれているが、安倍首相自身もそう覚悟していたに違いない。

 そして内閣改造後の世論調査は、その懸念が正しい事を証明してくれた。

 ついに、きょう8月7日の朝日がはっきり書いた。

 朝日の世論調査では、内閣支持率も不支持率も、そして不支持率が支持率を上回っている事も、内閣改造前とほとんど変わっていないと。

 安倍首相を信頼できないと答えた者も、いまも圧倒的多数のままだ。

 この認識があったからこそ、安倍首相は田原氏と、どうすれば危機を乗り超えられるか真剣に語り合ったのだ。

 そしていろいろな案が出たが、二人が最後に辿り着いた結論が憲法9条改憲の棚上げだったというわけだ。

 この憲法9条改憲棚上げの狙いは、支持率回復ではない。

 支持率の回復は無理だ。

 そうであれば、支持率が回復しなくても、政権を存続させるにはどうすればいいかだ。

 その通りである。

 憲法9条改憲棚上げ本当の目的は政権の延命なのだ。

 宿願の改憲を棚上げしてまでも政権延命を優先させたのだ。

 この事を、きょう発売の週刊プレーボーイ(4月28日号)で、元朝日記者で、いまはフリージャーナリストの川村晃司が教えてくれている。

 つまり5月3日に思いつきでくちばし改憲案と日程をチャラにすれば、今度の総選挙で改憲派議員の三分の二を失ってもかまわない。

 そう割り切れば、いつでも解散・総選挙に踏み切れる。

 これこそが安倍首相が手にしたかったものだ。

 安倍首相は解散・総選挙という切り札を切る事だけはあきらめない。

 安保改正と引き換えに総辞職した岸信介の後悔を繰り返し聞かされて育ったからだ。

 おまけに麻生首相の失敗例も見て来た。

 だから、10月解散や、年内解散があるかどうかはわからないが、少なくとも来年の衆院議員の任期切れまで解散・総選挙を遅らせて野たれ死ぬ馬鹿な真似だけはしない。

 そう決めているのだ。

 そして、憲法9条棚上げは、その解散・総選挙戦略に見事に有利に働いたようだ。

 いくら憲法9条改憲を棚上げしても、一旦口に出した途端、憲法9条改憲の議論はひとり歩きする。

 そして議論がひとり歩きすれば自民党も野党も混乱する。

 一番ダメージを受けるのは野党連合だ。

 安倍首相が憲法9条改憲を棚上げしたというのに、民進党代表選は改憲が大きなテーマになり、どっちが勝っても分裂は必至だ。

 そして解散・総選挙が近いという不安は、小池百合子に新党結成を急がせる。

 きのうのテレビで若狭議員が細野支持に言及し、それを今日の各紙が一斉に取り上げた。

 もはや政局は、ポスト安倍を巡って走り出したのだ。

 しかし、新党が乱立すればするほど安倍政権は生き延びる。

 少なくとも次の衆院選までは安倍政権は続き、そして解散・総選挙のカードは安倍首相が握っている。

 そして保守は自民党か小池新党に向かい、どちらも改憲そのものには賛成だ。

 共産党と共闘する野党は少数派となり、やがて社会党のたどった轍を踏む。

 結局、9条改憲を最後まで反対する野党は共産党だけとなり、おそれる必要はどこにもなくなる。

 かくして、日本の政治は、9条改憲と日米同盟重視で共通する二大保守党の時代が来る。

 そうなれば、やがて国会が憲法9条改憲を堂々と言い出す時が来る。

 その時まで、安倍首相が首相の座にいてもいなくても、改憲の道筋をつけたのは安倍首相ということになる。

 これこそが安倍・田原合作の憲法9条改憲棚上げの目指すところである。

 そうはさせないというのが、憲法9条こそ最強の安全保障政策政策だと正面から安保論争を挑み、国民を覚醒させる新党憲法9条である(了)

 

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  1. 天木さん、日米同盟廃棄、自民党廃棄という点では、貴方を支持する者です。しかし、残念ながら憲法に関する考え方は賛同出来ませ。安倍と田原の下らぬ冒険話は無視すべきで、そんな事よりも矢張り加計問題を棚上げすべきではないでしょう。以下に、私が最近のブログ記事の中から、加計問題の本質をズバリ言い当てたオニクタラム氏の秀逸コメントを掲載します。天木さんも、こうした切り込みがなければ、新党小池ファーストに潰されちゃいますよ〜。

    加計学園問題にみる「イジメの構造」-植民地行政官としての県知事と市長と県民・市民
     加計学園獣医学部新設問題は、「宗主国」と「植民地」の関係に置き換えてみることができる。加計学園側には、日本の最高の権威と権力を兼ね備えた人たちが組しているのに対して、獣医部新設を引き受ける側の今治市側には、それに身体を張って反対できる力もなければ、そもそもそれができない仕組みの中に置かれている。いわば、「宗主国」に対する「植民地行政官」として奉仕する立場に置かれている。
     それが証拠に、加戸愛媛県前知事が国会で何を話したかを思い出せばいい。中村現知事が何を話しているかを思えばいい。彼らは共通して、愛媛県と今治市はもう十何年前から加計に賭けてきた、と真顔で言い続けているが、少しでもまともな頭で計算できる者なら、133億円もの市税と県税をつぎ込んで、加計学園という一私企業の金儲けのために一緒に汗をかき、その挙句が年3000万円の増収しか見込めず、投資した税金額の回収に320年も要する云々の話を、公開の場でするだろうか。そこまで「私たちは馬鹿ですよ」と言わないと生きていけない、県知事になれない、務まらない境遇に環境に置かれているのだから、まさに植民地行政官でしかあるまい。誰かに、その圧力を受けて言わされてきたというのがふさわしいのか。それとも、嬉々として植民地行政官としての任務を果たしてきたというべきか。いずれもそうだろう。
     それじゃ、県民や市民はどうして立ち上がらないんだ。怒らない。みんなそんなことわかっているじゃないか。「イジメの構造」だろ。みんなイジメる側に回りたいから、そうしないと生きていけないから、何も言わないし、背を向けるんだ。背を向けるだけならまだいいのだが、一緒になって、応援するのだ。情けない、悲しい話だね。日本が米国に対してどう向き合ってきたかを自問自答するとき、すぐさま思いつくのは米国という「宗主国」に奉仕する「植民地(植民地行政官)」の立場である。そこには、中央に位置する安倍首相をはじめ大臣、官僚、国政を担う従事者たちと、地方に位置する47都道府県の中央政治に呼応した担当従事者が配置されている。問題は、一部の地域を除き、国民や県民や市民も、あたかも植民地行政官であるかのように、奉仕していることだ。自分たちより「弱い」あるいはそう思える立場や境遇や環境に置かれている者に対しては、宗主国の行政官のように、傲慢な薄情な振る舞いで向き合いながら、逆に自分よりは「強い」と判断するや、手のひらを返して、植民地行政官の如く自らを劣位者であるかのように、相手に見せながら行動するのである。
     当然ながら、植民地行政官として自らをみなして生きる者たちは、自分自身に対する誇りを持てず、同時に周りの者に対しても、いつも心の中で尊敬できないままに、さげすんでいるのだ。日本国家と日本国民が自らを、米国を宗主国として米国人を宗主国人として付き合う植民地・従属国とその行政官として、支配と従属の、差別と排除の関係に置くのと類似しているかのように、東京都と都民と福島県と県民のそれに、また46都道府県とそこに暮らす都道府県民と沖縄県と沖縄県民のそれに呼応した関係がつくられている。
     もっとも、沖縄県と沖縄県民の中にも、宗主国と宗主国人と、植民地とその行政官に類似した関係があり、どれほど馬鹿にされたら済むのかと思われる状況の中にいても、せっせと東京都と他の46道府県に奉仕する「売国奴」ならぬ「売国人」がいる。ただし、彼らも哀れな、可哀そうな者たちであるのは言うまでもない。彼らがそこまで卑屈な生き方に徹するのは、「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」社会とその仕組みの中に生きていて、そこで何をしなければ生きていけないか、家族を守れないかを知っているからだ。まさにイジメの関係である。一緒にイジメる側に回らないと自分も次はイジメられる、そうならないためにはどうするか、となる。文科省や他の省庁のお役人も教育委員会の先生方も、学校現場の教師たちも、みなそんなこと今さら言うまでもないよと、そ知らぬ顔をしながら、イジメはだめだ、人権をなんと考えているのか、けしからん、あってはならない、なんてということだけを宣い続けるだけだから、学校現場を含む他の社会の現場で、イジメは続くのは当たり前ではあるまいか。
     加計学園獣医学部新設問題は、まさにイジメの問題である。愛媛県知事も、今治市長も県や市の職員たちも、さらには愛媛県民も市民も、自分たちにとって宗主国と宗主国人はなんであるのか、誰なのかを、骨の髄まで、皮膚感覚にまで叩き込んで重々承知している。同時にまた、逆に言えば、自分たちにとって植民地と植民地人がなんであるか、どこの誰であるのかも、匂いを嗅いだだけで見極められるのだ。これも仕方がない。生きるため、生き残るためだから。だからこそ、タタカイは続くだろうし、闘うことが大事となるんだ。その際、間違っても、憲法を守れ、人権を大事にしろ、なんて言わないことだ。憲法や人権といった普遍主義を、イジメる側が最初に用意したことを忘れてはならない。私たちが今取り組むべきことは、加計学園問題で議論されている話に耳を傾けるだけでなく、自分たちを取り囲んでいるイジメの仕組みは、やはりだめなんだと、声を上げることではないか。イジメられていると感じている者から声を上げるのが大事ではないか。そうした時、初めて声を上げることの難しさ、声を上げて、助けを求めている者が私たちのすぐそばに、それこそ至る所にいることに、同時にまた、それにもかかわらず、その声に気が付かなかった、気づけなかった自分自身にも気が付くだろう。まずはそこまでたどり着くのが大事なことではあるまいか。そうなったときに、私たちは孫子の兵法に説かれている「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の珠玉の文言の含み持つ意味を改めて確認できるに違いない。

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