各紙の選挙報道を見ると、決まって出てくるのが護憲政党としての
「立憲民主・社民・共産」という言葉だ。
この言葉を見るために私は絶望的になる。
本気でそう書いているのならおめでたい。
知っていながらそう書いているのなら国民を愚弄している。
憲法9条を守るということは、すなわち日米安保条約(日米地位協定)
を否定(粉砕)することだ。
その事を、われわれは1959年の東京地裁の判決で知っている。
在日米軍(日米安保)は憲法9条違反である、と一刀両断した、あの
歴史的名判決である伊達判決だ。
その判決は、正しかったからこそ、米国と結託した田中耕太郎最高裁
長官によって差し戻しの上、否定された。
この時から日本は日米安保条約が憲法9条の上に立つ事になった。
これを国民の手で根本的に覆さなければいけないのだ。
これこそが憲法9条を守るということだ。
しかし、枝野は日米安保を容認している。
社民は、村山自社さ政権によって日米安保を認め、見事に寝返った。
その時点で政治の中から消えるべきだったのに、いまでも政界に
しがみついていること自体が噴飯物だ。
共産党は国民離れを気にして安保反対を隠して護憲ばかりを訴えて
いるが、今度の選挙でも議席を減らしそうな退潮ぶりだ。
こんな三党が、ばらばらのまま、憲法9条をいくら叫んでも憲法9条
を守れるはずがない。
その一方で、安倍首相の下で進められる日米同盟強化は、ハンパで
はない。
憲法9条を守れとお経を唱えている場合ではないのだ。
いまこそ平成の安保闘争を始めるしかないのだ。
それは、なにも60年代の安保闘争を繰り返す事ではない。
暴力的なデモを起こすことではない。
政治に無関心な、善良な、沈黙した一般国民を覚醒させるだけで
いいのだ。
憲法9条こそ最強の外交・安全保障政策であり、米国の核の傘に
守られて主権を失ったまま従属していくより、はるかに日本に
とって得策であるということを気づかせばいいのだ。
それが新党憲法9条をこの国の政治の中に誕生させることである。
そして、それはそのまま、天皇陛下のお言葉に応える事である。
だから何としてでも新党憲法9条を平成の時代のうちにつくら
なければいけない。
今度の総選挙はまもなく茶番で終わろうとしている。
茶番な選挙の後に、間違いなく繰り広げられる茶番な政界乱交の中
で、国民的な護憲政党である新党憲法9条なるものが出て来なくては
いけない。
それは、あのペルーの来航によって強要された日米不平等条約の撤廃
から始まった明治維新を、平成になって再現するということだ。
明治維新は武士、すなわち上からの革命であったが、今度こそこの国
に人民革命を起こさなければいけないのだ。
平成維新、すなわち憲法9条の下に、平和な日本を願う国民が結集し、
一票を投ずるだけで、人民革命が起こせる。
その政治的支柱こそ人民主権の象徴である新党憲法9条なのだ。
新党憲法9条は日本の希望である。
私が今度の選挙に立候補した意味はまさしくその口火を切ることである。
そのきっかけを作ってくれた砂川闘争の場所で私は今朝、街頭演説
に立つ。
あと4日、私は訴え続ける(了)
日本人は根本的に変化を嫌い安定を求める、
だから戦後アメリカが進駐して何十年も平和に戦争せずに済んだんだから、このままでいいだろうと皆考えている。
変に変えて混乱を招くのが嫌なのだ。
日本人は変化を嫌うが、国難に向かうとコロッと思想や考えを180度変える国民性がある、 明治維新や敗戦など。
アメリカ絡みで国難にならないと日米安保、アメリカ支配から脱却するのは、かなり難しいと考えます。
私の頭では国民の意識を変えるプロセスが全く浮かびませんが、
新党憲法9条が、どういう風に国民の意識を変えるか楽しみです。
選挙演説は、一部のインテリや一部の政治事情通に語りかけることではなく、じいちゃんばあちゃん、にいちゃんねえちゃん、普通の人たちに訴えることだとおもいます。思いはわかるのですが、あまりにせっかちに訴えると、むかしの左翼のように、上から目線の独善的な言葉と誤解されかねません。一緒にかんがえましよう、わたしはまちがっていますか?とかの姿勢もあるといいなあ、と思います。がんばってください。
天木さん、ご苦労様です。原爆2発ブチ落とされても核禁条約に反対する国、フクシマであれだけの大惨事をヤラカシテおきながら粛々と再稼働を進める国、55年体制で1000兆円もの負債大国にさせた自民党を今でもマツリアゲル国、美しい国ニッポンと言い乍ら醜い国政私物化をする首相に長期政権を奪われ続けさせる国、こんな国に絶望しか無いのにノウノウト希望の党なんて嘯く新党を急拵えして首相の座を掠め盗ろうとする女狐に群がるダメ男しかいなくなった国、そんな国で日がなネットに現を抜かし自分のフラストレーションをバーチャル選挙戦に興ずるしか能のない私を片隅に追いやる国。貴方の様な政治哲学を持つ人格者が何度も落選し政治家として国政に直接参与できない国。こんな国でも全否定出来ない。闘争に血は付き物で、一滴の血も流さずシステムを変える事なんて出来ない。それが歴史というもので、血を流す覚悟がない者は、本来、リーダーの資格はない。小林よしのりが枝野の応援演説で、小池と前原は「腹を切れ」とアジったが、それは現在においては辞任や辞職の意味合いで使われたり理解されたりする。だが、失敗して責任取らされたら辞める、辞めたら済む事、という軽い解釈ともなる。こうした風潮が、「無責任」日本を支える基にある。本当の責任の取り方は、「切腹」して死ぬ事だ。ワシにはそんな事、とてもじゃないが出来ない。だから人の上に立ったりする指導者には、到底成り得ないので陰でコソコソ潜んでいる。痛い目に遭い血は流したくない。死にたくはない。無責任のまま生き永らえ死んでいく。天木さんはそんな卑怯なワシとは違い、命を張って立候補し、命を削りながら選挙活動で持論を展開し、命懸けで政界に進出しようとされている。「貴方は私、私は貴方」なんて、嘘です。「貴方は貴方、私は私」でしかない。変な話になりましたが、今日も1日、頑張って下さい。日本の片隅で応援しています。