徳川の天下にてはそうらえども、天下は天下の天下にそうらえば・・・
これは、欧米列強の開国要求に危機感を抱いた徳川幕府が、それまで押さえつけていた幕藩のすべての力を結集して尊王攘夷をすすめようとしたことばである。
良く解釈すれば、徳川幕府が、徳川独占体制から幕藩に広く意見を求め、国を挙げて未曽有の危機を乗り切ろうとした言葉であり、悪く言えば討幕の動きを押さえつけて朝廷の名の下に更なる徳川幕府の生き残りを狙った一石二鳥の言葉である。
そう私は解釈している。
結果的には、徳川幕府の思惑通りには行かず、それどころか薩長土肥を中心とした一部の幕藩による、テロそのものの倒幕運動によって倒される。
どっちもどっちだ。
雌雄を決めたのは武力であり、尊王攘夷を尊王討幕にすりかえた長州などのテロリストがちゃっかりと欧米の武力を利用して倒幕に成功しただけだ。
そこには国民の存在はない。
そして、明治維新の「英雄」たちは見事に明治天皇を万世一系の天皇にまつりあげ、富国強兵、脱亜入欧でアジア侵略に突き進んで行くのである。
その中心が吉田松陰の弟子である伊藤博文などであり、明治憲法の起草者たちだ。
1945年の敗戦で日本は今度こそ新憲法の下で民主国家として出発するはずだった。
しかし、そこでも国民が知らされないままに政変は進んだ。
万世一系の天皇は象徴天皇に変わり、見事に米国が天皇の上に君臨し、米国の命令通り動く政権がこの国を支配し続け、いまや長州藩の末裔の安倍政権の手によって日本の民主革命の道は完全に絶たれたごとくだ。
そんな時にコロナ危機が起きた。
冒頭の徳川幕府の言葉にある「天下」を「日本」という言葉に読み変えてみれば見えて来る。
安倍政権が続こうと、野党の政権交代が起きようと、日本と言う国は国民あってこその日本だ。
国民生活が破たんすれば日本を統治する政権すら不要になる。
統治し、奪う対象がなくなるからだ。
国民あっての国家であり、国民あっての統治者なのだ。
もしコロナ危機がこれからも長く続く本当の危機なら、そして安倍首相がまともな統治者なら、こう言うしかない。
安倍政権の日本ではあるが、日本は日本の日本であるから、日本を救う事のできる政権であれば、いつでも、どの政権にでも政権を渡す覚悟を固めたと。
きょう、この瞬間から、その政権が見つかるまでの暫定政権になると。
そこではじめて国民は気づく。
国民を救うのは国民であると。
国民のための政権は国民の手で見つけなければいけないと。
そして、それは、これまでの政党、政治家による政権交代や、合従連衡からでは生まれない事を国民は知ったはずだ。
すなわち、日本を救う事の出来る政権とは、特定の政治家や政党がつくる政権ではない。
日本と言う国の政治理念がつくる政権だ。
その事に気づかなければいけないのだ。
それは資本主義でも共産主義でも、立憲民主主義でもない。
武力を否定し、共存共栄を目指す憲法9条の精神なのだ。
日本だけが持ちうる究極の政治理念なのだ。
その精神に反する米国の支配から日本を解放し、日本国および日本国民の統合の象徴である天皇の上に憲法9条を戴く日本を目指すのだ。
コロナ危機の後の体制変革(パラダイムシフト)こそ新党憲法9条の訴える日本の実現なのである。
そして、それは取りもなおさず上皇のあの「おことば」に対する日本国民の答えなのである(了)
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