私は去年の7月に京都に耳鼻塚があることを知って、この耳鼻塚の背景にあった豊臣秀吉の朝鮮出兵の残虐性を日本人が広く知る必要性を感じた。
同時に、それを知った日本国民が、日本人の手で耳鼻塚の下に眠る朝鮮人犠牲者の魂を正しく鎮魂・供養する必要があると思った。
そして、もしそれが出来れば、日本人のその行いが、日本と朝鮮半島の真の和解と友好関係の構築につながり、それどころか朝鮮半島の祖国統一に役立つことになるのではないかと思い始めた。
その為には、まず、政治に関心を持たない日本の一般国民の一人でも多くに、京都の耳鼻塚の存在を知ってもらう必要がある。
そう考えて、私は耳鼻塚を熱心に研究して来た韓国の識者に、日本人向けのわかりやすい解説書を書いてもらおうと頼んだ。
その識者との打ち合わせのため、私は京都に滞在する機会が多くなった。
コロナウィルスの為にその専門家はしばらく京都に来ることは困難になったが、私は2月25日から京都に来て原稿を取りまとめる作業を始めた。
そして、たまたま京都の知り合いから誘われて、私はきのう2月27日に京都地裁で行われた琉球民族遺骨返還訴訟を傍聴した。
この琉球民族遺骨返還訴訟とは、1928-29年に京都帝国大学の助教授が琉球を調査した際、学術研究と言う目的で持ち帰ったとされる遺骨を、その子孫らが返還したいと求めたけれど、その要求に京都大学が応じなかったため、昨年初めから始まった返還訴訟の事である。
この訴訟を傍聴した私は、この訴訟で原告が訴えていることが、まさしく私が関心を持ち始めた京都の耳鼻塚の鎮魂・供養で訴えようとしている事と、見事に通底している事に驚いた。
その一つは、魂の鎮魂・供養の重要性であり、人間の尊厳の重要さだ。
二つめは、琉球も朝鮮も、あの豊臣秀吉の朝鮮出兵の犠牲者であったという共通性だ。
おまけに琉球は、単なる犠牲者にとどまらず、豊臣秀吉に命じられて朝鮮出兵の際の兵站基地となって朝鮮出兵に加担させられたと言う二重の犠牲者でもある。
三つめは、豊臣秀吉が明治政府によって再評価され、明治政府の富国強兵に利用されたというところだ。
その結果、明治政府によって琉球が併合され(1979年の琉球処分)、ついで朝鮮が併合された(1910年)のである。
私がこれから発行しようとしている耳鼻塚の解説書は、もはや琉球民族遺骨返還訴訟と切り離せなくなった。
ところが、私が驚いたことに、昨日の裁判ではメディアの姿が一切見られなかった。
案の定、今朝(2月28日)の京都新聞を探しても、この琉球民族遺骨返還訴訟の記事は見当たらなかった。
もちろん大手紙の京都面には何も書かれていない。
まるで琉球民族遺骨返還訴訟など京都にとってはどうでもいい訴訟だと言わんばかりだ。
それどころか、ここまで無視するということは、琉球民族遺骨返還訴訟は、寝た子をさます有害な訴訟だと言わんばかりなのだ。
もしそうだとすれば、耳鼻塚の問題も同じに違いない。
寝た子を覚ますつまらない問題だと言う事になる。
しかし、琉球民族遺骨返還問題も耳鼻塚問題も、寝た子を覚まさなければいけないのだ。
歴史上の誤りは、その誤りを直視しない限り、再び過ちを繰り返す事になる。
どうしたらその事を国民に気づかせるか。
その戦略こそ耳鼻塚の解説書出版の最大の課題である。
その事を気づかされた、きのう2月27日の京都地裁で行われた琉球民族遺骨返還訴訟の傍聴であった(了)
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