少し前の記事になるが、3月7日の毎日新聞が、一段の小さな記事で次のように報じた。
なぜ私が数日も前の新聞記事について今頃になって取り上げるのか。
もちろん、ほかに書くことなくて、ネタに困ったわけではない。
数日間、ほかのメディアがどう取り上げる、誰かが問題提起しないか、その様子を見たかったからだ。
そして見事にこの記事はスルーされて忘れ去られようとしている。
だから今書くのだ。
その記事はこういう記事である。
すなわち、安倍首相が3月6日の参院予算委員会で、天皇陛下の代替わりに伴い「退位」との表現を用いる事に関し、「今回の皇位継承は天皇陛下がその意思で皇位を譲るものではなく、(退位実現の)特例法の直接の効果として行われる事を踏まえ、『譲位』ではなく、『退位』が適当と考えた」との見解を示した、という記事だ。
希望の党の松沢成文代表の質問に対する答弁であるというところがミソだ。
毎日新聞のその記事は、それしか書いていない。
誰でも、いまさら聞けないことがある。
当たり前のように語られ、皆が知っていると思われる事を自分が知らない時、恥をかくことを恐れて聞けないのだ。
しかし、私は恥を忍んで書く。
私は日本の天皇制についてほとんど何も知らない。
この短い記事の内容が正確に理解できないのだ。
この記事のどこが、記事にするほどの重要性を内包しているのか。
そもそも、この記事の正確な意味はどこにあるのか。
「譲位」と「退位」はその意味においてどう違うのか。
自らの意思で皇位を譲る事が譲位で、そうでない場合が退位であると安倍首相は言っているがそうなのか。
さらに言えばなぜ特例法をつくらなければいけなかったのか。
天皇制の伝統に従えば天皇の意思で皇位交替はあり得ないことだから、生前退位は今の天皇限りにしたい、常態にはしない、そのために特例法をつくり、天皇の意思で交替するのではなく、あくまでも特例法に従った交替にした、それが「特例法の効果」だと安倍首相は言いたいのか。
そして、質問をした松沢議員はその安倍首相の答弁で満足したのか。
いや、その答弁を安部首相から言わせたかったために、わざわざ答弁したのか。
疑問だらけだ。
しかし、ひとつだけはっきりした事がある。
私が毎日新聞のその記事で最も衝撃を受けたのはそこだ。
すなわち、その、何もわからない、短い、一段の小さな毎日新聞の記事は、次のように締めくくられている。
「陛下は昨年12月の85歳の誕生日にあわせた記者会見で『譲位』と述べている」と。
つまり天皇陛下は、去年12月の誕生日のお言葉の中で、譲位という言葉を使って、自らの意思で皇太子に皇位を譲る事を明らかにされたのだ。
それを安倍首相が、そうあってはならないと否定し、「退位」に固執したのだ。
これは物凄い国会答弁である。
つまり内閣議院制度の下にある安倍首相は、天皇の意思にかかわりなく法律を制定できる。
そしてその法律によって天皇陛下の意思を否定できるのだ。
安倍首相は日本国と日本国民の統合の象徴である天皇陛下の上に立つ存在なのだ。
しかし、よく考えてみればこれは民主主義の我が国にしてみれば、当たり前なのだ。
だから野党は反発せず、天皇制は民主主義に反するとして否定する共産党に至っては議論の外にあるということだ。
おりから安倍首相は皇位交替を待たずして皇太子への内奏という異例の行動をとった。
ますます天皇陛下は首相の下に置かれる事になる。
我々は、今一度、日本の天皇制と日本国憲法の定める民主主義のありかたについて国民的議論をしたほうがいい。
これは、これまでは間違いなくタブーだった。
しかし、安倍首相による、神をも恐れない天皇陛下発言の否定によって、タブーがタブーでなくなったと言う事である(了)
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