天皇陛下はきのう2月23日、即位後初の60歳の誕生日を迎えられた。
コロナウィルス感染拡大を受け一般参賀は見送られた。
しかし祝宴の儀は行われた。
その記事を読んで私は違和感を抱いた。
コロナウィルスで国民が不安に突き落とされている時に宴会を開いていいのか、という思いはもちろんある。
しかし、それよりも違和感を覚えたのは、約470人と報じられた招待客の顔ぶれだ。
各国の大使夫妻ら約190人の招待客に関しては、日本国と日本国民の象徴である天皇の招待客として違和感はない。
皇族方や三権の長についても異存はないだろう。
ところが、招待客の中には、閣僚や国会議員、文化勲章受章者、その他各界の代表者が含まれているという。
特に私が注目したのは国会議員や各界の代表者たちだ。
どういう基準で誰が選ばれたのだろう。
誰が最終的に決めたのだろう。
その選考過程で天皇の意向がどう反映されたのか、されなかったのか。
このリストこそ、桜の会の参加リストよりはるかに重大だ。
メディアは国民のためにそのすべてを公表すべきだ。
天皇陛下は日本国と日本国民の象徴である。
天皇陛下はその事を誕生日のあいさつでも繰り返している。
閣僚や国会議員や各界の代表と一般国民の間に差別があってはならないはずだ。
すべての国民は無理であるから、せめて抽選で一般庶民の誰でも招待される枠をつくるべきではないのか。
この私の疑問は、上皇が天皇陛下の時の誕生日を祝う宴会の時でも提起されるべきだった。
しかしその時は私はそういう考えを持たなかったと思う。
上皇天皇は安倍政権のいいなりにはならなかった、それどころか安倍政権とは異なるご自分の意思を示された。
もしそう思ってやり過ごしていたら、それはそれで問題だと思う。
天皇が変わるたびに天皇制について考えを変えるのは、やはりおかしい。
そしていくら上皇が自分にとって好ましい天皇だったとしても、天皇の政治介入はあってはならない事だと思う。
憲法に従って天皇は内閣の決定に従わなければいけないと思う。
しかし、上皇と安倍首相との関係に限っては、私は上皇が意思を示された事はよかったと考える一人だ。
安倍首相の平和に反する政策を抑止する力があったからだ。
しかし、私がそう思っても、安倍首相の政策に賛成する国民は上皇の行為は天皇にあるまじき行為以と映っただろう。
その一方で、もし象徴天皇が内閣の決定に従うだけの形式的な存在であれば、逆の意味で危うい。
安倍政権のように独裁的な政権であれば、天皇の名を借りて何でもで天皇陛下を政治利用できるからだ。
そう考えると、そもそも天皇制は、民主主義の下で必要なのかどうかという議論に及ぶ。
天皇制に反対して来たのが共産党だ。
しかし、いまの共産党は政権政党を目指すあまり、天皇制反対を言わなくなってしまった。
共産党の良さがなくなってしまった。
それでは天皇制は不要なのか。
民主主義を徹底すれば大統領や首相がすべてを決める事になる。
それでいいのか。
米国ではトランプ大統領のような人物が現れて絶対君主のようにふるまっている。
日本も安倍首相のような首相が出て来て、天皇の上に立とうとしている。
果たして立憲君主制がいいのか共和制がいいのか。
議会制民主主義がいいのか国民が直接指導者を選ぶ大統領制のほうがいいのか。
きのう夜のNHKドラマ「麒麟が来る」で、天皇制を蔑ろにすれば戦乱の世の中になるというセリフが出て来た。
明智光秀の信長暗殺は、実は明智光秀一人の謀反ではなかった、織田信長が増長して天皇の上に立とうとしたから皆の総意を受けて明智光秀が織田信長を暗殺したのだという説もある。
信長を受け継いだ豊臣秀吉は病死したが、もし長く天下人を続けていたら、やはり織田信長のように天皇の上に立とうとしたに違いない。
いまの天皇・皇后を見ていると、上皇・上皇后の時代とは違って安倍首相の決めた事に従うだけの存在になっているような危惧を抱く。
つまり安倍首相が天皇の上に立とうとしているという疑念を持つ。
それは危険な事だ。
どうすれば皆が納得する日本の統治体制ができるだろうか。
私はやはり特定の政治家に任せてはいけないと思う。
もちろん天皇が権限を持つことではない。
憲法9条を日本国民の象徴である天皇の上に置く政治こそ必要だと思う。
きのう行われた天皇陛下誕生日を祝う祝宴の記事を読んで、様々な思いが駆け巡った。
しかし、どの新聞も、何も触れていない。
どの記事も金太郎あめのように、事実だけを何の解説もなく書いておしまいにしている。
これでは日本の政治の混迷が続くばかりだ(了)
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