イスラエルの有力紙ハアレツの占領地特派員として、ガザやヨルダン西岸に住んでパレスチナの窮状を現地から報道し続けているアミラ・ハスという女性記者がいる。
そのアミラ・ハス氏が、パレスチア占領を撮り続けて来た写真家土井敏邦氏の招待で来日し、その最初の講演がきのう9月17日東大キャンパスであった。
那須塩原から東北新幹線を乗り継いで本郷三丁目までとんぼ返りで出かけた。
どうしても会いたいと思ったからだ。
イスラエルの国民からは「祖国の裏切り者」と呼ばれ、パレスチナ占領地の者からはイスラエルの共犯者と呼ばれてまで、現地の状況を世界に発信し続ける、その勇気の源泉はどこにあるのか、会って確かめたかったからだ。
思った通りの素晴らしい人物だった。
そこまで彼女をつき動かすものは何かと問われて、出て来た言葉は不条理に対する怒りだった。
そして、真実を知れば世の中は変わると信じて20年書き続けてきたが、それが幻想だったと最近は思うようになったと、気弱な一面も見せた。
それでも書き続けると明るく話し、どんな質問にも誠実に、力強く答える彼女を見て、私はこの上ない勇気をもらった気がした。
いま私の手には彼女の書いた現地報告集を邦訳した「パレスチナから報告します」(2005年5月初版 筑摩書房)がある。
私が外務省をやめて言論活動を始めた時、本屋で見つけ、それを読んでパレスチナ問題の原点を教えてもらった本だ。
戸棚に埋もれて色あせたその本を引っ張り出して持って行った。
いま、そこには、彼女の直筆による、Amira、 Tokyo、17/9/17という署名が記されている。
おりからパレスチナでは、対立するパレスチナ自治政府主流派ファタハに抗する強硬派ハマスが、ファタハ主導の暫定統一政府の統治を受け入れる声明を発したと報じられた。
たとえそれがアミラの言うように、「パレスチナにおけるすべての美しい言葉は空しく終わる」事になるとしても、これもまたアミラの言うように、それでも、希望を捨てない、という思いでその記事を読んだ。
その記事の最後にこう書かれていた。
5月にハマスの最高指導者に就任したハニヤ氏は、事態打開のために、9日から仲介役のエジプトの首都カイロを訪問し、国境検問所の常時開放や経済支援について協議すると。
ガザの封鎖はいまでも過酷を極めている。
兵糧攻めにあっても負けるな、俺たちは塩とオリーブがあれば生きていける
総意って苦しみ続けているパレスチナ人を熱狂させたあの名言がいま再び私の心に中に蘇って来た。
世界は至るところで不正義との戦いが続いている。
しかも我々が想像できないほどの不条理との苛酷な戦いが。
そんな不条理と戦っている人々に思いをはせ、みずからも勇気づけられた一日だった(了)
※以下の櫻井ジャーナルの中で取り上げられている櫻井春彦さんの「日本の原子力村はアメリカが全面核戦争の準備を進める過程で作り上げられた」は、大変、参考になるものです。皆さんも御一読下さい。
原発がないと電気が足りないのかどうかの議論をするときに念頭に置くべきことは、そもそも日本に原発が導入されたのは「必要」だったからではないということ。アメリカの冷戦戦略、核戦争の準備の中で、日本の核アレルギーが邪魔になり、それを取り除くために「核の平和利用」の概念と利権を日本に持ち込んだ。ジャーナリストの櫻井春彦は、冷戦の中で何度も全面核戦争の危機をくぐりぬけた米ソ間の緊張と、中国の核武装を受けて、核の「平和利用」から核武装に進もうとした日本の姿と、それを阻止しながらさらに自分たちの核戦略に取り込もうとしている米国の動きまでも分析している。これを読んで、核の「軍事利用」と「平和利用」の切り離しなどは不可能であるし、そもそも「平和利用」そのものが「軍事利用」の仮面に過ぎなかったことが分かる.。櫻井論文にも、日本の核武装を求め、それがだめならアメリカに守って欲しいとの懇願する佐藤栄作首相の話が出ているが、その佐藤が「非核三原則」でノーベル賞を受賞していることを見ても、日本の「非核」「平和」の名を借りた核政策がいかに欺瞞に満ちたものであったかという事だ。また、反対する側も、「反核兵器」と「反原発」が分かれた存在であったことが、その欺瞞を止めるどころか増長する結果を招いた。
関連投稿: 田中利幸 原爆と「原子力エネルギーの平和利用」 「原子力平和利用と広島」
NHK番組 『現代史スクープドキュメント 原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~』書き起こし
日本の原子力村は
アメリカが全面核戦争の準備を進める過程で作り上げられた
櫻井 春彦
【中曽根康弘】
アメリカ軍の内部で先制核攻撃の準備が始まる直前、日本では「原子力村」が産声を上
げた。1954年3月2日、2億3500万円という原子力予算案が国会に提出されたのである。
その中心には当時35歳だった中曽根康弘がいた。予算案は修正を経て4月に可決されてい
る。
言うまでもなく、こうした動きの背景には1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米
大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言がある。日本に原子力村を建
設することはアメリカ政府の政策だった。
1955年12月には藤岡由夫を団長とする調査団が欧米の原子力事情調査のため出発、翌
年の3月に帰国しているが、その間に原子力基本法が成立、4月には通産省工業技術院に
原子力課が新設され、経団連は「原子力平和利用懇談会」を発足させている。
しかし、日本には原子力発電に関する技術も必要な物質もない。そこで6月には日米原
子力協定が締結され、アメリカから原子炉と濃縮ウランが提供されることになった。この
協定によって原発を推進する目処が立ち、1956年1月に原子力委員会が設置される。初代
委員長に選ばれたのは読売新聞社主の正力松太郎だ。
ここで、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。なぜ、中曽根が原子力村を建設する際、最初の鍬
を入れたのだろうか?
1947年、28歳で衆議院議員に初当選した際には矢部貞治東大教授に推挙されたことも
あり、全国5位の大量得票を得ているのだが、だからといって原子力予算案の提出には結
びつかない。1956年には日ソ平和条約について「黙祷を捧げつつ承認を与える」と演説
しているが、これとも結びつかない。アメリカ政府が中曽根を信頼する何らかの理由がほ
かにあるはずだ。
中曽根とアメリカとの関係を調べると、1950年6月の出来事が節目になっていると思わ
ざるをえない。スイスで開かれるMRA(道徳再武装運動)の世界大会へ出席するために
日本を飛び立っているのだ。この団体はアメリカの「疑似宗教団体」で、CIAと結びつい
ていると言われ、日本人としては岸信介や三井本家の弟、三井高維(みついたかすみ)ら
が参加していた。 1
そのMRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーなどCFR(外交問題評議会)のメン
バーと知り合うことにも成功、1953年にはキッシンジャーが責任者を務めていた「ハー
バード国際セミナー」に参加している。セミナーのスポンサーにはロックフェラー財団や
フォード財団、あるいはCIA系だと言われる「中東の友」も名を連ねていた。
キッシンジャーがセミナーの責任者に選ばれたのは1950年、ハーバード大学を卒業し
た直後のことなのだが、大学へ入る前、彼はCIC(対敵諜報部)の一員として活動してい
る。
その当時、キッシンジャーは極秘機関OPC(政策調整局)と接触している。その仲立
ちをしたハーバード大学のウィリアム・エリオット教授はAMCOMLIB(ソ連人民解放ア
メリカ委員会)の幹部という顔を持ち、OPCのフランク・ウィズナーにアドバイスを提供
したり、CIA系学生団体を監督し、政府の秘密機関へ学生を導いたりしていた。キッシン
ジャーの大学における足場を築いたのもこの人物だという。 2
【第五福竜丸の被曝】
中曽根たちによって日本へ原子力を持ち込む扉がこじ開けられたわけだが、原子力推進
政策が順調に進んだわけではない。まず、原子力予算が提出される前日に大きな問題が持
ち上がっている。
当時、アメリカは南太平洋のビキニ環礁でアメリカが水爆の実験を行っていたのだが、
近くで操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」の船員23名が被曝したのである。漁船の乗
組員はアメリカ側に傍受されることを恐れて日本との無線連絡を絶ち、3月14日に焼津港
へ戻っている。広島と長崎に原爆を落とされから9年足らず、当時の日本人には反核感情
が強く、漁船の被曝はそうした感情をさらに高めることになった。
こうした世論を「親核」へ転換させるために動いたのが読売新聞/日本テレビを経営し
ていた元内務官僚の正力松太郎と彼の懐刀と言われた日本テレビ重役の柴田秀利。反核を
親核へ転換させるためのプロパガンダを展開していくことになるのだが、その際に正力や
柴田は「ダニエル・ワトソン」なる人物と接触している。
ワトソンはアメリカの心理戦に加わっていたとされているので、おそらく心理戦局に所
属していたのだろう。心理戦局はCIA長官、国務次官、国防次官で構成され、大統領直属
の部署だ。
結局、このプロパガンダは成功し、日本の政財官界は原子力政策を邁進することができ
た。
【核戦争計画】
1952年5月に自由党が明らかにした科学技術庁設立案には核兵器の開発研究も含まれて
いたようだが、当時、アメリカの場合はソ連に対する先制核攻撃が議論されている。この
計画はウィンストン・チャーチル英首相のソ連に対する先制攻撃とも共鳴しあっている。
チャーチルは第2次世界大戦が終わる前からソ連に対する先制攻撃を目論み、JPS(合
同作戦本部)に計画の立案を命令している。そこで考え出されたのが「アンシンカブル作
戦」だ。
イギリスの学者リチャード・オルドリッチによると、数十万人の米英軍が再武装したド
イツ軍約一〇万人と連合して奇襲攻撃するという内容。 3 ジャーナリストのステファン・
ドリルによると7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める
想定になっていた。
5月8日にドイツ軍のアルフレート・ヨードル大将が降伏文書に署名し、その2週間
後、22日に計画はチャーチル首相へ提出されているのだが、この作戦は発動していない。
実行できないとして、参謀本部が5月31日に計画を拒否したのだ。攻撃ではなく防衛に集
中するべきだという判断だった。
1945年7月にチャーチルは首相の座を降り、この計画はとりあえず消えるのだが、アメ
リカでは逆の動きがあった。1945年4月、「反ファシスト」のフランクリン・ルーズベル
ト大統領が急死、「反コミュニスト」へ政策が大きく変化していくのである。
日本がポツダム宣言を受諾すると通告してから約1カ月後、統合参謀本部では「必要な
ら」という条件付きで先制攻撃を行うことが決められた。この決定は「ピンチャー」とい
う暗号名で呼ばれ、1946年6月に発効している。 5
この時点のアメリカに「全面核戦争」を行う能力はなかったが、数年で事態は大きく変
化、1948年後半頃、「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連へ
の核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」、1949年に出された統合参謀本部の
研究報告では70個の原爆をソ連の標的に落とすという内容が盛り込まれていた。この戦
争を戦うために特殊部隊のグリーン・ベレーが創設されている。 6
1955年頃になると、アメリカが保有していた核兵器は2280発に膨らみ 7 、57年になる
と軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。 8 マックルア将軍の計画は
十分に実現可能な状態になった。当然、日米安保体制はアメリカのこうした核戦略に組み
込まれている。
世間で「抑止力」という表現が使われるようになったのは、アメリカ軍の内部でソ連へ
の先制核攻撃を準備しはじめた頃から。本心を隠すための嘘ということだ。この段階から
核兵器は「攻撃力」であり、「抑止力」などではない。「核の傘」という表現も現実を反
映しているとは言えないだろう。
【核武装計画】
アメリカの好戦派が核戦争を始めるチャンスを逸した1964年、中国が初めて核実験を
実施した。日本政府はこの出来事にすぐ反応、内部で核武装への道を模索する動きが具体
的に出始めている。 27
NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年に訪米した
佐藤首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つなら
ば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。こうした日本側の発言に対し、
ジョンソン政権は日本に対し、思いとどまるよう伝えたという。
また、1967年に訪米した際、佐藤首相は「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対
しても日本を守ると言うことを期待したい」と求め、ジョンソン大統領は「私が大統領で
ある限り、我々の約束は守る」と答えたという。 28 ちなみに、「動力炉・核燃料開発事業
団(動燃)」はこの年に設立されている。
日米の間でこうしたやりとりがあったわけだが、その一方で核武装の議論は政府内で続
けられ、西ドイツ政府に秘密協議を申し入れている。1969年2月に開かれた両国の協議へ
日本側から出席したのは国際資料部長だった鈴木孝、分析課長だった岡崎久彦、そして調
査課長だった村田良平。日独両国はアメリカから自立し、核武装によって超大国への道を
歩もうと日本側はその席で主張したのだという。
この提案を西ドイツは拒否するが、それで日本側が核武装をあきらめることはなかっ
た。10年から15年の期間での核武装を想定、核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット
技術開発、誘導装置開発などについて調査した結果、技術的には容易に実現できるという
結論に達している。
原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産
することになっていた。この発電所で高純度のプルトニウムを年間100キログラム余り作
れると見積もっていた。つまり、長崎に落とされた原爆を10個は作れるということにな
る。 29
【再処理工場】
東海発電所の原発はGCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)で、原爆用のプルトニウ
ムを生産するには適していると言われている。アメリカやソ連はこの型の原子炉でプルト
ニウムを生産、原爆を製造している。
このほか、重水炉や高速炉でも原爆用のプルトニウムを作れるようだが、その高速炉の
開発を目指していたのが動燃。「もんじゅ」と「常陽」が核兵器製造システムに組み込ま
れていると疑われても仕方がないと言える。こうした高速炉が機能していないのは結果に
すぎず、日本の「エリート」たちが核武装を夢想しているかどうかとは別の話だ。常陽の
燃料を供給していたのが臨界事故を起こしたJCOだった。
1977年になると、東海村の核燃料再処理工場(設計処理能力は年間210トン)が試運
転に入る。2006年までに1116トンを処理、その1パーセントのプルトニウムが生産され
たとして10トン強、その1パーセントは誤差として認められるので、0.1トンになる。つ
まり、計算上、これだけのプルトニウムを「合法的」に隠し持つことができるということ
になる。
こうした日本の動きをアメリカは警戒するはずだと最初に指摘したのがジャーナリスト
で市民運動にも積極的に取り組んでいた山川暁夫。1978年6月に開かれた「科学技術振興
対策特別委員会」で再処理工場の建設について、「核兵器への転化の可能性の問題が当然
出てまいるわけであります」と発言している。アメリカ政府は見過ごさないと指摘したわ
けだ。
実際、当時のジミー・カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊
迫した場面があったと言われている。兵器級のプルトニウムを生産させないため、常陽の
ブランケットを外させたともいう。アメリカが疑惑を深めた一因は、「第二処理工場」を
建設する際の条件だった「平和利用」が東海村の処理工場にはついていなかったことにも
ある。
日本が核武装を目指していると疑われている一因は、RETF(リサイクル機器試験施
設)の建設を計画したことにある。RETFとはプルトニウムを分離/抽出するための施設
で、東海再処理工場に付属する形で作られることになった。
この施設には奇妙な点がある。アメリカ政府が東海村のRETFに移転した技術の中に
「機微な核技術」、例えば小型遠心抽出機などの軍事技術が含まれているのだ。この事実
は、環境保護団体のグリーンピースからも指摘されている。
つまり、この段階になると、日本の核兵器開発にアメリカ政府が協力している疑いが出
てきたのである。日本が進めていた「自主開発」を中止させ、アメリカの管理下で開発さ
せようとしている疑いがあるということだ。日本の核武装をアメリカは自分たちの戦略に
組み込んだ可能性も否定できない。
櫻井春彦
早稲田大学理工学部卒。米国の世界戦略と情報/破壊活動の関係をテーマに調査研究を続けている。「軍事研究」や「世界」でレポートを発表。著 作は『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』(三一書房)と『アメリカ帝国はイランで墓穴を掘る』(洋泉社)
櫻井さんのブログはこちら。http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/
ツイッターは @Sakurai_Journal
https://www.youtube.com/watch?v=DX45DvVbX30黒川くん哀しい遠吠え
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/398325黒川くん、未だ孤軍奮闘してる
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/397663因みに、田中俊一委員長に「ナンだお前、出て行けよ」っい言われたのは横田一
https://www.youtube.com/watch?v=NZhb7Q95Y7Yこれがドウシヨウモナイ日本の現実
https://www.youtube.com/watch?v=_SihKlHslIk原子力規制委員会の田中俊一とはエライ違いだ