末期肝臓がんと診断された劉暁波氏を釈放したまではよかったが、その治療で出国を認めるかどうかで、中国政府がかたくなになっている。
この対応を誤ると、習近平の中国は手厳しい国際批判を受けるだろう。
本人や妻がそう希望し、海外での治療が少しでも延命に望みがあるなら、習近平は直ちに出国を認めるべきだ。
そうしない習近平は大きな過ちを犯すことになる。
私がそう思ったのは、きの6月29日の毎日新聞「木語」で、坂東賢治専門編集委員がこう書いていた事を読んだからだ。
中国を代表する文豪の魯迅について、毛沢東はかつて次のように評価したという。
「牢につながれても書き続けるか、道理をわきまえて声を立てないかだろう」と。
これを聞いた当時の知識人は、声を立てれば投獄するという毛沢東の冷徹さに冷や汗を流したという。
魯迅の一筋縄でいかない反骨心を、毛沢東は見抜いていたのだ。
そして坂東氏は、毛沢東のいう、「牢につながれても書き続ける」姿勢を貫いた者こそ、89年に留学先の米国から帰国して天安門での学生運動に参加した劉暁波氏だという。
その劉暁波氏は、2010年のノーベル平和賞授賞式の「私に敵はいない」と題するスピーチの中で、次のように語ったという。
「私は未来の自由な中国の誕生を楽観的に期待している。なぜなら自由を求める人間の欲求はどんな力でも止めることができないからだ」と。
この劉暁波氏を見て、私は南アのマンデラを思い出した。
投獄につながれたマンデラを獄死させるわけにはいかない。
なぜならマンデラが投獄のまま死ねば、その時こそ黒人の暴動は頂点に達するからだ。
さりとてマンデラを釈放させるわけにはいかない。釈放したとたん黒人の暴動が頂点に達するからだ。
このジレンマは、国際圧力に屈した南アの白人政権がマンデラを釈放し、そのマンデラが暴動を抑えて選挙で大統領になった事で平和裏に解決した。
いままさに、劉暁波氏は中国のマンデラだ。
中国で病死させるわけにはいかない。
習近平は毛沢東を師と仰いでいるらしい。
しかし、いまこそ習近平は、毛沢東を超えなければいけない。
劉暁波氏を自由にするのだ。
その事によって起きる政治的リスクを受け止めるだけの寛容さを示すのだ。
寛容さが必要なのは、劉暁波氏の出国だけではない。
香港や台湾で見せる一つの中国への性急なこだわりだ。
南シナ海における軍事覇権の強化だ。
このままいけば習近平は世界の平和に背く国になる。
それは中国だけではないが、いまこそ習近平の中国こそ、世界の指導国を目指すのなら、憲法9条の精神が必要なのだ。
その事を、習近平の中国に諭す事が出来る国は、世界広しといえども憲法9条を持つ日本しかない。
ところが、その日本の首相は、みずから憲法9条を手放して、中国と敵対しようとしている。
これ以上ない間違いである。
残念でならない(了)
日本の首相や、多くの大臣のなかには、「藤誠志」のペンネームのアパホテルの代表者の理論近現代史学の考え方に心酔しているために、その広がりが問題になっている。核武装論などの過激な思想の持ち主として稲田防衛大臣は、海外でも知られている。そして、最近では、米国アトランタ日本総領事の発言が、慰安婦を売春婦として発言したことで、韓国政府は「事実なら極めて不適切」と述べた。総領事は旧日本軍が慰安婦を動員したという証拠はなく、かかわった女性は全員売春婦だったと述べた。
要するに侵略戦争はなく、慰安婦問題や、南京事件もなく、張作霖事件はソ連の特務機関の犯行と位置づけている。国軍を持ち、国家を人権より優先させたい。靖国神社を公式にすべきだ。一方で
戦後70年日本国憲法が平和を支えてきた。国家より人権の尊重、憲法9条は絶対守る、政教分離原則、先輩政治家が侵略戦争の間違いを認めてきた。南京大虐殺、慰安婦問題は日本軍が起こしたことだと認めている。
今の政権が誤った認識を是とするために、それに同調する人たちが重用され、権力の傘で広がることは、日本にとって不幸である。
誤った歴史認識の本を、図書館に1800余りを寄贈すると作者は述べている。地域に入り込んでいる同調する人たちが広げるだろう。
中国と今の日本の政権と同じ立場で、敵対することに自信を持っているとすれば、それはそれで恐ろしい。
今こそ皆がそれに歯止めをかけねばいけない。メディアが権力の意のままにならないことが、一番の歯止めになるというのは、反対のことをした行為で歴史が証明している。