日刊ゲンダイを愛読している方なら、最近私の名前が出て来なくなったと気づいている方がいるかも知れない。
それもそのはずで、私は日刊ゲンダイのコメントをしなくなって久しいのだ。
安倍批判の急先鋒である私がこういうのもおかしいが、日刊ゲンダイの安倍批判があまりにも一方的になり、その批判がますます品がなくなってきたからだ。
いくら真面目にコメントをしても、書かれた事は日刊ゲンダイの記者があらかじめ用意していた内容でしかなく、私は名前を使われているに過ぎない事に嫌気がさして来たからだ。
そう思っていたら、きょう7月19日の東京新聞の「新聞を読んで」というコラムで拓殖大学の丹羽文生という教授が同じ様な考えで東京新聞を批評しているのを見つけた。
その人は東京新聞の、この「新聞を読んで」というコラムの執筆者の一人だという。
執筆を引き受けて東京新聞の朝刊と夕刊を隅から隅まで読み込むようになったという。
そして、そこで気づいた事を次のように書いている。
「・・・本紙(東京新聞)は全体的に政権批判の論評が散見される。過去のバックナンバーも開いてみたが、基本的に変わらない・・・まるで安倍政権は『独裁政権』であるかのような印象を受ける・・・」と。
「・・・筆者は決して(安倍)政権擁護の立場を取るわけではない・・・安倍晋三首相の発言には曖昧な部分も数多く見受けられ釈然としなかった。だが、『ピントがずれている』、『しらじらしい』など、読者をアジテート(扇動)するかのような見出しは違和感を覚える・・・」と。
「・・・本当に安倍政権はそこまで劣悪なのか。そうだとすれば過去6回の国政選挙で大勝するはずもない。逆に言えば有権者が愚かということになる・・・」と。
「・・・ジャーナリズムの使命は権力監視にあると言われるが、それは決して政権批判とイコールではないことだけは押さえておく必要があろう。仮にそうだとすれば野党批判ができなくなってしまう・・・」と。
実は私も最近の東京新聞の権力批判ぶりに、かつての東京新聞とは違ってきた印象を持っていた。
私が新聞に期待するのは情報であるが、批判のための批判の記事が目につくようになったからだ。
拓殖大学と言えば右翼的な大学だと思う。
どちらかといえば安倍政権に好意的な教授の多い大学だと見受ける。
その拓殖大学の教授を執筆者の一人に加え、東京新聞の安倍批判を批判をさせているところを見ると、東京新聞もまだ自己批判ができる健全性を持っているということなのだろうか。
東京新聞が日刊ゲンダイのようにならない事を願うばかりである(了)
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