8月6日の広島原爆投下日から始まって8月15日の終戦(敗戦)記念日に至るまでの一週間は、お盆休みとともに「平和と戦争」振り返ることが日本の年中行事だ。
その季節は、どのメディアも「平和と戦争」にまつわる特集記事で埋めつくされる。
そのほとんどは、産経や読売さえも、二度と過ちは繰り返しませんといったたぐいの、紋切り型の記事ばかりだ。
しかし、そんな年中行事の記事の中でも、狙いすまして発表される注目すべき記事を見つける事が出来る。
きょう8月7日の朝日新聞が掲載した、歴史学者・吉田裕氏とのインタビュー記事がそれだ。
「大元帥たる昭和天皇」と題したそのインタビュー記事は、昭和天皇の戦争責任について、これ以上ないほど明確に史実の裏付けを伴って検証している。
そこに述べられている吉田裕氏の言葉は衝撃的だ。
いわく、昭和天皇は、「天皇の軍隊」が飢えや病気で苦しんでいた事をかなり把握していたと。
どこでどの軍艦が沈められたかなど、日本軍が受けた被害についてほぼ確実に把握していたと。
いわく、それでも、1945年2月に近衛文麿元首相が戦争の終結を上奏した時、「もう一度戦果をあげてからでないとむずかしい」と答えたと。
いわく、大正天皇は若い時から病気がちで、大きな戦争もなかったので統帥権の発動者として行動することはほとんどなかったと。
明治天皇は様々な形で戦争や作戦に加わったが、伊藤博文はじめ幕末の動乱をくぐり抜けて来た元勲たちが天皇を支えていたと。
しかし、昭和期になると伊藤のような人物はいなくなり、天皇が文字通り軍を統帥することになったと。
いわく、昭和天皇は、統帥については自分が最高責任者だと考えていたという証言があると。
すべてを天皇に上げて、裁可を得なくてはならず、戦況の急な変化には対応できなかった、総力戦には通用しないシステムだったと。
もはやこれ以上書く必要は無いだろう。
昭和天皇には戦争責任があった動かぬ証言だ。
それをマッカーサー占領軍司令官が免責した。
その負い目を引きずって戦後の日本が始まったのだ。
これ以上ない矛盾である。
そして、その矛盾が、戦後74年経った今、日米安保条約絶対主義という形で完成したということではないのか。
このことを、どれだけの日本国民が知っているというのか。
いまの日本国民にとって、正しい歴史認識ほど必要なものはないということである(了)
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