きょう4月26日の報道で知った。
辺野古反対派のリーダーで沖縄平和運動センター議長の山城博治被告(66)について、最高裁第3法廷(宮崎裕子裁判長)は、被告の上告を棄却する決定をしたと。
これで山城博治被告の懲役2年、執行猶予3年の有罪が確定したと。
このニュースの意味するところは。これで山城博治の政治家としての将来が閉ざされたということだ。
なぜオール沖縄はこの判決に騒がないのか。
それとも、山城博治被告が威力業務妨害や器物損壊の罪で有罪になるのは「法の支配」の日本ではやむを得ないとでもいうのだろうか。
私はいまこそ、在日米軍は憲法9条違反だと断じて米軍基地内に侵入した反対活動家に無罪の判決を下した、あの1959年の砂川判決(伊達判決)を、沖縄の政治は甦えさせなければいけないと思う。
玉城知事が早稲田で講演するのもいい。
落合恵子や宇都宮健児が記者会見を開いて辺野古阻止をアピールするのもいい。
しかし、辺野古阻止の原点は、私も二度ほど訪れた、あの米軍基地前の座り込みの中にこそあるのだ。
本来ならば、玉城知事が、そしてオール沖縄の各党の党首たちが、先頭に立って座り込むべきなのだ。
活動家たちに対しては牙をむき、虫けらの様に逮捕・投獄するが国家権力も、政治家たちにはそう簡単に手は出せない。
だからこそ政治家たちが体を張って先頭に立って座りこむべきなのだ。
山城博治を政治家にさせて座り込みの先頭に立たせる。
それは究極の辺野古反対活動だ。
それが出来なかった、いや、しようとしなかった沖縄の政治に辺野古阻止など出来るはずがない(了)
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